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忠臣蔵 2(第2話 赤穂激震)のDVD

荒波にまみれていく赤穂藩

松平健さんが主演を努めた歴史ドラマの「忠臣蔵 DVD-BOX」のDisc2で、浅野内匠頭が切腹した後から始まる「第二話 赤穂激震」のストーリー・名言・感想を紹介します。

「第2話 赤穂激震 」のストーリー

桜のように散って行った浅野内匠頭

浅野内匠頭が切腹をした上に、赤穂藩が断絶するという事で、赤穂藩士達は動揺を隠せない中で家老「大石内蔵助」は難しい選択を迫られます。(ネタバレ注意)

籠城を叫ぶ赤穂藩士達(序)

赤穂藩の城には藩士が集まり、その中で大石内蔵助(演:松平健)は浅野内匠頭が切腹した事を告げます。藩士達は籠城して合戦を叫びますが、大石内蔵助は何も決断しませんでした。

赤穂藩の民は、合戦が始まると想って、遠くへ逃げようと混乱のるつぼになったのです。大石内蔵助は、藩がつぶれるので藩札を一般の貨幣に交換して、民に苦労させないように苦心しました。(藩がつぶれれると、藩札は紙くずになってしまう為)

一方で、江戸にいた赤穂藩士達は、浅野内匠頭の墓前で髻(もとどり)を切り落として、悔しさをにじませていました。

千坂兵部の懸念(破)

大石内蔵助の元には、浅野本家(広島藩)の重役達が、合戦しないで開城するように説得に来ていました。しかし、大石内蔵助は説得に応じようとしないで、重役達は激怒します。

一方で、上杉家の家老「千坂兵部(演:夏八木勲)」は、大石内蔵助が復讐しようと企んでいないか恐れていました。実は吉良上野介の息子は、米沢藩の上杉家へ養子に出されており、今では米沢藩の藩主になっていたのです。

千坂兵部は、上杉家の供廻頭「小林平八郎(演:春田純一)」から伝えられる赤穂藩の動向をじっくりと聞いて、赤穂藩が合戦か浅野内匠頭の後を追う事になるだろうと考えました。小林平八郎は、合戦になる場合について「面倒な事になりまするな」と言います。しかし、千坂兵部は合戦になってくれれば、騒ぎは一時に済むと言いました。千坂兵部は、開城して赤穂藩士300名が刺客となって吉良上野介の命を狙ってくる事を恐れたのです。

大石内蔵助の言葉は?(急)

大石内蔵助の元には、赤穂藩士「堀部安兵衛(演:宇梶剛士)」が訪れて、幕府が吉良上野介には何のお咎めもしなかったと報告したのです。さらに、吉良上野介(演:伊東四朗)を斬ろうとした浅野内匠頭を止めようとしたのが、加古川本蔵(演:平泉成)と報告しました。その報告を聞いていた加古川本蔵の娘婿である大石主税(演:山崎裕太)は愕然とします。

大石内蔵助の元に、幕府から城の明け渡し役が脇坂淡路守(演:村上弘明)に決まった事を手紙で知らせてきました。脇坂淡路守は、浅野内匠頭の幼なじみで無二の友であった事から、大石内蔵助は堀部安兵衛にそのような相手に合戦が出来るかと寂しくつぶやきました。

大石内蔵助は、城で再び評議を行いますが、藩士達に殿の後を追って藩の再興を願い出る事を告げます。しかし、その決定に納得できない藩士達は去って行きました。

「第2話 赤穂激震 」の名言

昼行灯と呼ばれた大石内蔵助

赤穂激震で登場した数少ない名言を紹介します。

大石内蔵助が揶揄された名言

大石内蔵助が、よく周囲から揶揄(やゆ)された名言で、一度は聞いた事がある方が多いはずです。

まさしく昼行灯、昼行灯じゃ

大石内蔵助が、浅野本家の重役の説得に応じなかった時に、重役達が大石内蔵助に向かって言い放った言葉です。この昼行灯(ひるあんどん)とは、日が落ちて暗くなった夜に灯をともすのが行灯ですが、昼間に行灯に灯をともしても、ぼんやりとした明るさで役に立ちません。

つまり、昼行灯とは役に立たない人物の事をあざけ笑う時に使う言葉で、大石内蔵助はたびたび昼行灯と揶揄されていました。ぜなら、大石内蔵助は本心を打ち明ける事は少なく、何がしたいのか分からない人物と思われていたからです。

「第2話 赤穂激震 」の感想

上杉家の毘沙門天の旗

赤穂激震についての、独断の感想を書きます。やはり、注目したのは大石内蔵助の辛い胸中でした。

上杉家が悪人側について悲しい

私は新潟出身なので、越後(新潟)の戦国大名だった上杉家が大好です。戦国時代の上杉家の大名だった謙信や景勝は義を重んじる人物でした。それが、この時代では吉良上野介という悪人側についていたので、凄く悲しかったですね。吉良上野介の悪行が誇張されていたとは言え、あまり良い気分はしません。

上杉家の領地が15万石に?

私は、忠臣蔵を見て上杉家が15万石になっていた事を知って、さらにショックを受けたのです。関ヶ原の合戦前は120万石だったのを、家康から領地を減らされて、30万石になったのは知っていました。いつから30万石から15万石になったのか調べてみたら、1664年上杉綱勝が実子や養子がいないまま亡くなった事から御家断絶の危機に直面した時に、上杉綱勝の正室の父親である会津藩主「保科正之」が奔走して上杉綱勝の妹と吉良義央(吉良上野介)の間に生まれた息子を上杉家当主にすえたようです。しかしこのような騒動を起した事から30万石から15万石に減らされたようですね。

義を重んじる家風があった上杉家だけに、この時に奔走してくれた会津藩に恩義を感じていたのでしょう。幕末の時代に、会津藩が新政府に攻め込まれそうになった時に、奥羽越列藩同盟に米沢藩が参加したのも、その辺りが大きいのは間違いないと思います。

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