吉野朝太平記 1(鷲尾雨工)の書評

楠木正成の像

南朝の忠臣『楠木正成』の息子たちが、足利を討伐しようとしますが、息子たちの間では足利を倒すやり方で考えが分かれてしまいます。そのような状況の中で、遂に楠木正行と高師直の戦いの火蓋が落とされました。

「吉野朝太平記 1」のストーリー

湊川の神社

南北朝の戦いは熾烈を極めて、南朝側は名将と謳われる楠木正成や新田義貞などが次々と命を散らしていきました。それに引き換え北朝側は、足利尊氏・足利直義・高師直などが健在で、南朝は劣勢のように思われていました。

しかし北朝側では、高師直の専横が目立つようになって、足利直義一派と激しく対立するようになっていたのです。そのような態度を示していた高師直を何度も高一族は諌めますが、高師直は聞く耳を持ちません。しかし、この対立を察知する者が、南朝側にいました。それが楠木正成の三男である楠木正儀でした。

楠木正儀は北朝側が乱れた所を討とうと考えていましたが、楠木正成の長男である楠木正行は即時決戦を望んだのです。戦いにはやる兄の心底を理解できない正義でしたが、その秘密を知って止む無く足利と戦う事を認めるしかありませんでした。

しかし北朝側では、足利直義が密かに高師直を一気に亡き者にしようと計画するほど一枚岩ではありませんでした。そして楠木軍は1500の手勢を引き連れて北朝に攻勢をしかけます。序盤は南朝側が優勢に戦いを進めていきました。

しかし、高師直は東海・東山・北陸・山陽の四道から兵を集結させて、高師直本軍5万という大軍が中河内へ進撃してきたのです。

あまりにも、多勢に無勢でしたが楠木軍は奮戦。しかし、この四條畷の戦いに最後まで反対していた楠木正義だけが戦線を離脱していました。正義は戦いが終わった後に、楠木軍の惨敗の報告を受けて、ある秘策を実行に移そうとしていました。その秘策こそ北朝の攻勢に耐えられるものと考えていましたが、果たして正義の思惑通りにいくのでしょうか?

「吉野朝太平記 1」から伝わる事

吉野の山

後醍醐天皇に最後まで忠義を貫こうとする楠木正成でしたが、戦いに無知な公家たちの浅はかな考えによって献策は却下される事になります。そして楠木正成は、湊川の戦いで壮絶な最後を遂げました。

楠木正成は、正攻法で足利の大軍に勝てる訳がない事を覚悟で命を散らしていく事になりますが、楠木正成の息子である正家も同じように勝てない戦に突き進む事になります。ここから分かる事は、残念ながら歴史は同じ事が繰り返されるという事です。

そして楠木軍は大敗北を喫しますが、楠木正義が生き延びる事によって南朝はまだ持ちこたえていく事になります。この事も重要な所で、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した時に、徳川家康が朝鮮まで出兵しなかった事によって迅速に江戸幕府を誕生させて日本を立ち直らせた事と同じ状況と言えます。

勝負に出るのは悪い事ではありませんが、万が一の事を考えて、余力を残しておく事の重要性を私たちに教えてくれます。そのため何か夢を追いかける時でも、失敗した時の備えを残しておく事は重要でしょう。

「吉野朝太平記 1」の見所

城の石垣

吉野町太平記は、残念ながら楠木正成が亡くなった後から始まるので、最初は男と女の色恋沙汰から始まっています。そのため戦を中心にした物語を読みたい方には少し退屈に感じてしまうかもしれません。

しかし少しずつ戦に近づいていく事によって、物語は急展開を見せていきます。そして周囲からうつけ者のように思われていた楠木正義が、実は相当の切れ者である事が分かって行く事が、この吉野朝太平記 1の大きな見所です。そのため、切れ者である楠木正義が、大惨敗を喫した南朝をどのようにして立ち直らせる事ができるのか読書の興味をそそる内容になっています。

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