吉野朝太平記 5(鷲尾雨工)の書評

京都御所の景観

吉野朝太平記 5では、いよいよ南北朝の争いが激しくなっていく中で、稀代の英雄である足利尊氏が重体に陥ってしまいます。そのような状況で、南朝の楠木正儀は、ある行動を起こそうとします。そこで、この小説を読んだ事がない方のために、この小説のストーリーや見所などを紹介するので、参考にしてみて下さい。

『吉野朝太平記 5』のストーリー

山名の本拠地

劣勢に立たされていた南朝でしたが、楠木正儀は、北朝の動向を探っていたら、佐々木道誉と山名時氏が論功行賞で激しく対立していた事が分かったのです。そこで楠木正儀は山名時氏の本拠地である鳥取まで出向いて、南朝に付くように説得します。しかし山名と楠は、長く戦ってきたので、双方ともに多くの家臣を失ってきました。

それでも山名は、南朝の後醍醐天皇に忠義を尽くして散ってしまった新田義貞を祖とする大名だったのです。そこで山名時氏は過去の事は水に流して、南朝側へ付いたのです。足利直冬が赤松則祐を牽制している間に、楠木・山名連合が京都へ突入します。足利義詮や佐々木道誉たちは、鶴翼の陣をしきますが、獰猛な獣のように突撃してくる楠木軍の猛攻に陣形が崩れてしまいます。

北朝は京都を失ってしまいますが、逆襲するために散り散りになった兵を集めていました。所が楠木正儀は夜襲してきて、不意を突かれた北朝側は佐々木道誉の本拠地である観音寺城へ逃げようとします。しかし、なぜか前もって用意されていた船がなくなっていて、北朝は壊滅的な打撃を受けて、他の道から撤退していきます。

京都を奪還した南朝でしたが、南朝側だった足利直冬が、赤松則祐に不意打ちを受けてしまって、多くの船や兵を失ってしまいます。さらに南朝側の兵站基地であった堺の街が焦土と化してしまったのです。このような事態に陥ってしまった楠木正儀は、必ず足利尊氏が大軍を引き連れて吉野へ襲撃してくる事を覚悟します。

楠木正儀は東条の城の防御をかためていました。そして楠木正儀は予想は的中して、足利尊氏は関東から5万もの大軍を引き連れて、足利義詮や佐々木道誉の3万の軍も加わって、8万もの大軍が東条の城へ押し寄せてきました。北朝側では足利尊氏が重体に陥ってしまいますが、寵臣である命鶴が軍を指揮します。8万を数える足利軍に対して、楠木正儀は5千にも満たない軍勢で、3年にも及ぶ籠城戦を展開して、足利軍を寄せ付けませんでした。しかし、食料や武具などが付きそうになったので、楠木正儀は足利尊氏と対面する事を決断します。はたして、足利尊氏と対面する事によって、この局面を打開する事ができるのでしょうか?

『吉野朝太平記 5』の伝わる事

城の防備

楠木正儀は最悪の状況でも、前もって準備をする事によって、足利勢の大軍を寄せ付けませんでした。このように人間は失敗をして、最悪の状況に陥る事はありますが、準備をする事によって、状況が悪化する事を食い止める事ができます。実際に楠木正儀は戦のなんたるかを知らない公卿たちの命令を聞かないで、東条の城の防御をかためた事が功を奏したのです。そのため状況が悪化するような事になったら、さらに状況が悪化しないために前持って準備をする事が重要になります。

『吉野朝太平記 5』の見所

京都の街並み

吉野朝太平記は5巻が最終巻になるので、ついに南北朝の戦いは終止符が打たれます。楠木正儀の苦しい決断のもとで、2つに分かれていた国体が1つにまとまる事になります。しかし吉野朝太平記5の最大の見所はそこではなくて、京都を失った楠木正儀が山名と共に逆襲する所です。勝ち誇っていた北朝に不意打ちをかけて、京都を再び奪還する辺りは、さすが楠木正儀と言った所でしょう。

/*文字を非表示*/
/*文字を非表示*/